バトルロワイアルとの比較

悪の教典での殺害行為

悪の教典について色々と調べてみると、様々な見解や感想を述べている人を見かける事がある。その中でも今日深い単語を使っていたのが『幼稚性』・『感情的』という言葉が用いられていることだ。どちらも非常に人間的だが、蓮見聖司なる化物は化物ではあるが『人間』である。彼には人間として当然のように存在しているはずの共感力が欠落しているものの、それ以外の機能は柔然足るまま稼動しているため、人間の姿を形作った『化物』だ。だからこそ彼の中と外ではあまりにも乖離した状況を垣間見れる、また自分のしていることがあまりに突拍子もないものだということはうすうす気付いていたのかもしれない。しかしそれも自分の頭脳を持って論理的且つ理知的に処理してしまい、あくまで自己を肯定化するための材料としていた。それらも作中で行われる大虐殺によって、彼のすべては崩落する。

そんな時に彼に幻聴として囁くのは『ムギンとフニン』、北欧神話に登場するオーディンに知識と記憶の情報を伝えるワタリガラスたちだ。幻聴で彼らは囁く、

・『君は、しょせんはサイコ・キラー。肉食の羊のような怪物だ。君のための居場所は、この世のどこにもない』

この言葉は蓮見という人間の狂気ではなく、人間として生まれてしまったがための化物が居場所もなく彷徨っていることを克明に示している言葉だといえる。その言葉に蓮見は言う、

・『黙れ』

とても端的且つ、そして殺戮の夜を奏でている孤独の指揮者はこれまで圧倒的な知識を持って淘汰してきた意見に対して、揺ぎ無い姿勢を見せてきたがそれも出来ずにいた。ただ殺して殺して、そして自分の周りにある小粒たちをひたすらに取り除いていくが、最後に何も残らないのは想像に難くないだろう。

そもそも彼が殺戮を決行しなければならなかった原因は、全て彼が起こした結果でしかなく、そして自分が招き寄せたからだ。証拠隠滅を兼ねたが、自分が描いた図面とは違う方式を組まれたため、その対処をすることそのものを放棄して、最初から作り直そうとする。なまじ頭が良かった蓮見という化物だからこそ許せなかったのかもしれないが、ここで彼が人間としての機能である感情に苛まれたがために計画性のない行動へとシフトしてしまった。

劇中で語られる殺人はこみよがしに、化物がそこに理由も大義も、そして意志もなく引き起こした地獄絵図でしかない。

漫画家になりたい!

生き様といったものが感じられない

意見をまとめてみると、悪の教典がある作品と比較されているのを見かけたので取り上げてみる。作品は『バトル・ロワイアル』、こちらは中学生同士が日本という国が計画した法律によって、最後の一人になるまで殺し合わせるという、こちらも非道な作品といえる。作品そのものが登場したときもかなり話題を呼び、とてもではないが教育上よろしくないと社会問題にまで発展する。

筆者もこの作品を視聴したが、悪の教典と見比べるとあまりに内容が違いすぎる。その違いとは何か、それは『殺す理由』についてだ。簡単に言うと、

・悪の教典における殺人:蓮見による一方的な殺戮だが、そこには明確な殺す理由はなく、ただ『邪魔』だったから。

・バトル・ロワイアルにおける殺人:生き残れば家に帰れる、生存するためには例え友人であっても殺す。一人ずつに明確な理由が存在しており、そして生き残りたい願望があった。

こういうことになるが、二作品における違いはあまりにも明確だ。悪の教典では蓮見による無慈悲などという言葉が通用しない虐殺でしかなく、理由はただ自分の邪魔になるからという体裁で、自分が引き起こした不始末による顛末を闇に葬るため、強制的に仕掛けただけのこと。対してバトル・ロワイアルにおける殺人をする理由には、全員が『生き残りたい』という一点に絞られた熾烈な殺し合いが描かれているが、それは生物として最もらしい本能といえる。

人間は安定した社会システムによって、人を殺さなくてもいい環境になっているが、一昔前の時代ではそんなものは出来ておらず、人殺しは当然のように行われていた。もちろん現代だからこそなのだが、人間はそうした過ちを知恵によってなるべく抑えるための基盤を作り上げる。それが法であり、警察であり、そして軍隊へと派生していった。そこにはもちろん『悪』はあるが、人によっては『正義』という言葉を胸に持っているものもいる。

理由があるからこそ人を殺すこともやむを得ない、バトル・ロワイアルの世界ではその理由が無理矢理作られてしまったため、後戻りすることも、否定することも、拒絶することも出来ない状況を作られてしまった。悪の教典にはそれはない、この違いは途方もないくらいの大きな壁を作り出しているが、バトル・ロワイアルの世界で蓮見とよく似た登場人物がおり、また同じ悪でもそのジャンルがあまりにかけ離れている存在もいる。

暗殺教室

経営者ならではの悩みを解決します!福岡 税理士法人コスモス福岡事務所では、経営者・医業経営者の皆様や相続に関するご相談を承っております。お気軽にお問い合わせくださいませ。

人殺しと殺戮者の境界線

蓮見聖司とよく似ているのは、『桐山和雄』という一人の生徒、そしてそんな2人と同じ悪でありながら境界線上の反対側に立っている『相馬光子』というキャラだ。この3人は人殺しとしての性質は共通している部分はあるものの、相馬光子は蓮見と桐山になることは出来ない。どうしてか、それはあくまで相馬光子というのが一人の少女であり、そして『人間』だからだ。対して蓮見と桐山は『化物』だが、前者は『先天的』なもので、後者は『後天的』なものとなっている。この点でも大きな隔たりを作り出している。

これによって蓮見という存在がいかに化物毅然としているかを強調している、どうしてかというと桐山和雄は同じ『化物』だが、元々幼少期は感受性のある優しい少年だったという背景が存在している。しかしそんな少年時代にとある事故によって脳を損傷してしまったがため、彼は『人間』という皮を強制的に脱ぎ捨ててしまい、『化物』へと突然変異してしまった。そう、事故さえなければ家柄も裕福な少年として成長したはずだったが、1つの事故で一人の少年は人間を辞めることとなる。

そして相馬光子という少女、幼少期からネグレクトされてしまい、あまつさえ性的虐待を蒙る被害を受け続けていた。そうして彼女が取った手段は自己防衛というもの、自らの女としての武器を駆使して周囲の男達を利用、自分が生き残るための手段として利用できるものは利用していたが、そんな彼女も捨て切れなかったのは人間として求めたい『愛情』だった。幼い子供の頃、両親の無償とも言える愛情を欲したが彼女は受けられることなく、誰からも愛されない立場となってしまい、孤独を感じる。だからこそ利用する人間の中にはどこか父親、または母親の面影を映していたため、彼女は本当の意味で人間を捨て切れなかったため、化物になる事はできなかった。

桐山和雄と相馬光子は不運だったのかもしれない、それは蓮見もそうだが彼は自身の障害を排除する術しか思いつかなかった。そして彼は共感力の欠如という欠陥を持っているがため、誰からも愛されていることを実感できず、自分のことを理解してくれる人間など一人もいない事実に苦しめられる。この人格障害があったからこそ、殺戮者として相応しい適応力を見せてしまった。こう考えてみると、誰からも理解されず、そして愛されていることを実感できないのに、感情を始めとした人間性を持っている蓮見聖司という化物のアンバランスさが際立つ。それこそ桐山のように人間性が無くなればよかったのだろう、だが人間として生まれてしまった事がこの悪の教典主人公『蓮見聖司』という『人間』の因果だったのかもしれない。

イマドキ、ウェブコミック

月刊誌アフタヌーンを語る